上を向いて歩こう
打ち合わせが終わってお茶を飲んでいる時、その会計士さんは「時折は空を見上げていますか」と、私に問いかけてくれた。
私の打ち合わせ態度をみて、余裕を持っていない人だと思ったのだろう。
確かに、ここ暫くは業務に追われて余裕が無かったし、仕事の移動中も考えごとをして下ばかりを見ていた。
「このビルに、展望スペースがありますよ。ご一緒しませんか」
初対面に関わらず、その会計士さんは時間を取って私を誘ってくれた。
高層ビルの中程にある展望所からは、街の風景が広がり、そして広々と空が眼前に開けていた。空には梅雨の雲がまだらにかかっていたが、遠くの山並みの背後で雲が黄金色に染まっている。
ここ最近の私は、確かに下ばかりを見て仕事をし過ぎていたようだ。
視点を少し上にずらせば、こんなに素晴らしい拡がりが存在しているのだ。
私の頭の中の殺伐は、空に溶けて和らいでいった。
その日の夜の仕事帰り。
地下鉄の出口を出てからの家までの帰り、私は、家の近くの公園のベンチに座って初夏の夜空を見上げていた。
夜空の所々の漆黒に目を凝らしていると、ただの黒く塗りつぶされた空間にポツリ、ポツッと星たちが瞬き始める。
夜空を見上げるのは何年振りだろう。
星が私の頭上に存在することを忘れていた。敢えて、気にしてこなかった。
目が慣れた夜空に、今まで見上げなかった星々が確かな存在を示している。その星々は、私の認識と関わりなく、何十億年と輝き続けているのである。
今、私と星々の間には、何も隔てるものはなかった。
吉良上野の立場を読んで
菊池寛の「吉良上野の立場」を読んだ。
赤穂浪士は義士と言われ、討ち入りした四十七士は切腹となったが多くの同情と共感を集め、その子孫も後々他家に登用されたと聞く。
古くから何度も演劇、映画などで取り上げられて、日本人が美談として捉えてきた話だ。
菊池はこの当たり前に、果たしてそうかと吉良の立場から疑問を投げかける。
吉良からすると、自分は浅野家の仇でも何でもない。むしろ被害者である。
確かに浅野には嫌味を言ったかもしれない。しかし、殿中で抜刀の上斬りつけられる言われはない。
通常では考えられない気狂いである。浅野に斬り付けられ怪我を負ったのは自分のほうである
浅野が切腹となったのは、自分が決めたのではなく、幕府が決めたことである。
浅野家が改易となったのも、吉良とは関係がない、幕府が決めたことであり、それは法による裁きである。
それなのに、何故自分は敵として浪士達に殺害されなければならないのか。
浪士達が恨むべきは、不明の主君浅野であって、被害者である自分ではないはずだ。
浅野家への討ち入りは、仇討ちでも、敵討ちでもない。単なる暴力に過ぎない。
自分は殺された後も、嫌味な敵として不名誉を残し、暴力を用いた浪士が義士と称賛される。あまりに理不尽ではないか。
なるほど、様々な見方があるものだと思う。浅野の主張は明解で納得できる。
当たり前と思っていることに疑念を抱くこと、本当にそうなのかと問いを発することが必要だ。
「吉良上野の立場」は、そのことに気づかせてくれる。
読み終えて今、私が自分に発している問いは、国の支出にかかる財源問題である。
我国には債務を減らす筋道がない。選挙でそれを訴えると負けるから、政治家は切り込めない。今後も改善の見込みがないように見える。
それで大丈夫か。国の債務は、問題がないという論者がいるが本当か。
自分はゆでガエルなのではないのか、この状態から脱するにはどうしたら良いのか。
定額給付金を受領した私が、矛盾を抱えながら、そんなことを考えている。
立春の卵と思い込み
卵が立つ、ということを恥ずかしながら最近まで知らなかった。
コロンブスの卵の逸話ではなく、時間をかけると卵は先端を潰さずとも立つというのである。
この話を最近知ったのは、深代惇郎の天声人語にある「立春の卵」というコラムを読んだからである。
深代氏のコラムが書かれたのが、昭和49年3月である。その中で、中谷宇吉郎という雪の結晶の研究者による「立春の卵」という随筆が引用されている。その随筆は、青空文庫に掲載されているから誰でも確認ができる。初出は、昭和22年4月1日になっている。
私が驚いたのは、卵が立春でなくとも、いつでも、生卵でもゆで卵でも立つという結論は、中谷氏が昭和22年に明らかにし、深代氏が昭和49年に再び取り上げているのに、それから時代が相当下っても私に届いていないという事実である。
私は、自分一人の不明、無知であったかと思い、恐るおそる人に尋ねてみた。
「テレビで見たよ」という人もいたが、結講多くの人が、「コロンブスのことやろ、そんなん知ってるで」と私と同じように卵が立つことは不知であった。少しほっとした。感覚的には十人に九人までは、私と同様にコロンブスの逸話レベルに留まっていた。
中谷氏は随筆の中で、卵が立たないという思い込みのため、人類の中に何百年と卵を立たせる努力をする者がいなかったこと、思い込みの歴史、人間の盲点が厳然とあると述べている。
私が強烈に感じたことは、「盲点」はそのままであり続けるということである。
卵は底を潰さずとも立つという正しい情報は、広く伝播しなかったか、一時期伝播したのだが忘れ去られた。
正しいことは広く伝わると限らず、伝わっても忘れられ、盲点は再び人の目を隠すようになる。このような事象は歴史の中にいくらでもあるのだろう。
そんなことを考えさせられた。
漱石先生の書簡について
私の漱石に対する勝手なイメージが変わったのは、「漱石先生の手紙が教えてくれたこと」という岩波ジュニア新書に引用されている漱石の手紙を読んでからである。
それまで私は、漱石の人柄についての知識がなく、なんとなく気難し屋で、取り扱いの難しい人との思い込みがあった。
漱石の小説はいつくか読んだが、その人となりは詳細に知らなかったのである。
しかし、先の本に紹介された手紙文に現れた漱石の人柄は、誠に親切な一面があるのだ。
例えば、最後の小説「明暗」について読者から批評の手紙が届くと、それに対して長々と真摯な回答をしている。
当時、漱石はとても忙しかったことは間違い無かろうと思うが、面識のない人に対して貴重な時間を割いて、手紙を書くことはなかなかできることでは無い。
ジュニア新書を読んで以来、漱石全集のうち書簡を集めた巻が欲しいと思っていたところ、先日ブックオフで24巻「書簡下」を見つけた。値段が定価に比べ非常に安かった。古本屋は、たまにこういう掘り出し物に当たるから楽しい。私は、早速全集24巻を購入した。
特に読みたかったのが、漱石の磯田多佳に対する手紙である。
漱石は最晩年に京都に遊びに行き、老いらくの恋愛感情をお茶屋の女将磯田多佳に対して抱いたのではと言われている。そのことが現れた手紙が全集に収められているのである。
短く引用する。
「是は黒人たる大友の女将の御多佳さんに云ふのではありません普通の素人としての御多佳さんに素人の友人なる私が云ふ事です」
多佳と出かける約束をしていたことをはぐらかされたことを、漱石は責めて、上記くだりを多佳へ書いている。
玄人に違いない多佳に、素人世界の決まりを説くのは野暮に違いないが、漱石はそうせざるを得ない感情を多佳に持っていたのだろう。
濹東綺譚の永井荷風のように全てを知り尽くした上での恋愛ではなく、「三四郎」の無骨と未熟に近いと思った。
「時」を乗り越えられる唯一の手段は「言葉」であると、井上ひさしが私家版文書読本で述べていた。
その時は、頭で理解してなるほどと思ったのだが、本当には分かっていなかった。しかし、漱石の手紙を読んだ時、確かに私の眼前に漱石が歪な感情を持って確かに現れた。これが井上さんの言わんとしていたことなのだ。
淡い恋を抱く一人の人間に会えた不思議な体験だった。
母の玉子焼きについて
玉子焼きが好きである。
居酒屋で食べるような綺麗な黄色の「だし巻き」ではなく、無骨でゴツゴツした焦げ目のついている玉子焼きだ。
関東風の甘いものはもってのほかで、関西風の塩味や醤油風味でなければならない。小さい居酒屋で、親父が実際に焼き上げた焦げ目のついた玉子焼きが出てくると無性に嬉しくなる。
小学校の頃、遠足の時に母が作ってくれる弁当には、大体、玉子焼きが入っていた。おかずスペースの三分の一を占めるくらいに存在感をアピールしていた。
一切れ口に入れると、ほのかな塩味とふんわりした食感で幸せになる。すぐにご飯を掻き込んで口の中で噛むとなんとも言えない味のハーモニーが醸し出される。
その玉子焼きは、モリモリ食べて力強く生きよという母の願いが詰まっていたように思う。
今では八十を越え、独り住まいをしている母のもとへ時折訪ねる。そんな時、母は「お腹空いてないか」と言ってあの玉子焼きをまだ焼いてくれるのだ。
相変わらず立派で焦げ目のついた、堂々とした玉子焼きである。
私は、母と向き合いながら、それをパクパクと食べる。
あと、何度こういう時間が持てるのだろうかと、頭によぎりながら、白いご飯と一緒に口に放り込んでよく噛む。
「まだまだ、あんたはバリバリ働いて頑張らなあかんで」と母の玉子焼きに励まされるのである。