吉良上野の立場を読んで
菊池寛の「吉良上野の立場」を読んだ。
赤穂浪士は義士と言われ、討ち入りした四十七士は切腹となったが多くの同情と共感を集め、その子孫も後々他家に登用されたと聞く。
古くから何度も演劇、映画などで取り上げられて、日本人が美談として捉えてきた話だ。
菊池はこの当たり前に、果たしてそうかと吉良の立場から疑問を投げかける。
吉良からすると、自分は浅野家の仇でも何でもない。むしろ被害者である。
確かに浅野には嫌味を言ったかもしれない。しかし、殿中で抜刀の上斬りつけられる言われはない。
通常では考えられない気狂いである。浅野に斬り付けられ怪我を負ったのは自分のほうである
浅野が切腹となったのは、自分が決めたのではなく、幕府が決めたことである。
浅野家が改易となったのも、吉良とは関係がない、幕府が決めたことであり、それは法による裁きである。
それなのに、何故自分は敵として浪士達に殺害されなければならないのか。
浪士達が恨むべきは、不明の主君浅野であって、被害者である自分ではないはずだ。
浅野家への討ち入りは、仇討ちでも、敵討ちでもない。単なる暴力に過ぎない。
自分は殺された後も、嫌味な敵として不名誉を残し、暴力を用いた浪士が義士と称賛される。あまりに理不尽ではないか。
なるほど、様々な見方があるものだと思う。浅野の主張は明解で納得できる。
当たり前と思っていることに疑念を抱くこと、本当にそうなのかと問いを発することが必要だ。
「吉良上野の立場」は、そのことに気づかせてくれる。
読み終えて今、私が自分に発している問いは、国の支出にかかる財源問題である。
我国には債務を減らす筋道がない。選挙でそれを訴えると負けるから、政治家は切り込めない。今後も改善の見込みがないように見える。
それで大丈夫か。国の債務は、問題がないという論者がいるが本当か。
自分はゆでガエルなのではないのか、この状態から脱するにはどうしたら良いのか。
定額給付金を受領した私が、矛盾を抱えながら、そんなことを考えている。